松本晋一「芸人の息子」時代


「ヤングレディー」1970年2月16日号。「女房は日大演劇科の先輩で、ボクのバレエの先生でもありましたが、月謝を払うより結婚した方が得だと考えて.....。5月には次の子が生まれます。」本文より。月謝を浮かすために結婚して生まれたのが自分だと思うと情けないです。


 『主婦と生活』1970年6月号。「わが家のスパルタ教育」という項目で、いろんな芸能家族が登場。他がボクシングとか相撲なのに、なぜかうちは木登り。母のコメント「晋一は体は弱いし、とても臆病な子だったんです。そのため住まいをこの郊外に移して、それと同時に始めたのが、野生の教育ですの。その効果はてきめんで、木登りなんかは、パパも驚くほど高いところへスルスル。体もすっかり丈夫になりました。」どう考えても編集者の人が書いたとしか思えないです。子供に木登りをさせる為に郊外に引越すなんて。もちろん普段から木登りをさせられてた覚えもないし、どう見ても取材の為に無理やり木にしがみつかせてるとしか思えない。腰が落ちてるし。顔固まってるし。おやじは演技してますけど。


 『週刊平凡』1970年7月。これはけっこうナイスなグラビアじゃないですか! 「オッペケペ オッペケペのカーラカラに晴れた日 晋一君に踊りのレッスン 「ぼくパパより踊りのセンスあるね」と逆に教えられている凡平さん おもちゃを買う約束をさせられ サイフの中はカーラカラになる??!」 オッペケペというのは、その当時おやじがやっていた「パイロット万年筆」のコマーシャルのこと。たぶん川上音次郎のオッペケペ節をもじってたんだと思います。「ルリ子のスカート赤だった。アケミのスカート青だった。ちらっと下着が白だった。オッペケペのカーラカラ。」子供たちが真似して言うもので、PTA から抗議があったらしいが、それでもおやじの名前を売るのに役立ったCMみたいです。おやじは大学時代に母からバレエを教わっていたくらいで、ダンサーと言うほど踊りをやっていたわけじゃないですが、まあそれっぽく見えますねえ。僕も、無理やり木に登らさせられてるより楽しそうじゃありませんか!僕の記憶では、「取材がある」と聞くと、すごくいやがっていて、おやじがおもちゃを買ってくれるという条件で我慢してやってた覚えがあります。だから、ここのコメントはまんざらウソじゃないですね。それにしても、いくら芸能人だからって外で踊りの稽古しなくてもいいのに。シルクハットかぶって。うしろで誰かが見てますよ。


 『家の光』1970年8月。「涼しさ抜群と早野凡平さんは坊やと大はしゃぎ。衿やポケットは共布でもよいでしょう。このほかに坊やのパンタロンもできます。」大人のゆかたの下を切った布で、子供の甚平を作るというアイディアです。よくある主婦の智恵というやつでしょうが、せこすぎる。まあ子供のほうはいいとしましょう。でも大人がこんなツンツルテンの着ても可愛くない。恥ずかしくて外歩けないと思うんですけど。フンドシしておみこしでもかつぐならともかく、子供と虫取りでこの格好。蚊にくわれそうです。おやじもこんなの良いと思ってなかったでしょうが、そこは仕事ですから、しっかり演技しています。だけど芸能一家ずれしていない僕は「早く終わってくれ。おもちゃ買いに行きたい。」という顔しています。


  雑誌名不明。「晋一は一人で紙芝居をつくって、みんなに演じてみせるのが好きなんですよ。かえるの子はかえるですね。でも大きくなったら俳優じゃなくて運転手になりたいそうよ(明美)」たしかに子供の頃、紙芝居を作っていたのを覚えている。新幹線の運転手になりたかったのも覚えている。コメントはよしとして、こんなボサボサの髪の毛でグラビアに載るなんて!しかし我ながら可愛くないと思いますが、今見るとぜんぜん芸能人ずれしていない無愛想さが笑えます。きっと「取材人なんて早く帰ってくれ!」と思っていたんでしょうね。


 「最初が男だったので、今度は女の子がほしいほしいと思っていたんですが、女房のやつ、病院へ行ったら開口一番「パパ、女の子でなくてごめんなさい」だなんて....。生まれてみると可愛いですね。二番目が生まれてから、上の子がひがまないように、親としていろいろ気をつかいますが大変ですね。(凡平)」

 弟が生まれ、自分は「わき役」になってしまいました。その後弟は僕とちがってとても可愛い子供に成長しテレビやグラビアに取り上げられました。やがて妹も誕生し、自分が中学生になる頃、週刊誌の取材の話もプッツリこなくなり、僕のグラビア時代は終わりました。


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