松本晋一

Shinichi Matsumoto

 昭和58年、日本大学芸術学部映画学科演技コースへ入学。同時にタップに興味を持ち、じん満、シュニ−パルメサ−ノに師事。昭和61年 渡米、サンフランシスコのタップマスター、スタンリ−カーン氏から古典的なタップを習う。昭和62年、サンフランシスコのタップフェスティバルで、ブレンダバッファリ−ノ、スティーブコンドスらに接する。平成3年に穴田英明氏と東京リズムボーイズを結成。平成8年からタップインの加藤邦保氏に師事。タップはもちろん、舞台演出の多くを教わる。同時に「ジミ−スライド/KEEP ON DANCING」からJAM TAP DANCE COMPANY の公演に数多く出演。ナショナルタップデイには1996年の第5回から毎回参加。2005〜7年に島田歌穂さん主演の「テネシーワルツ/江利チエミ物語」に中野ブラザーズの兄役(啓介)で出演。タップの振付も担当する。(現在都内3ケ所のスタジオにクラスを持つ。

昭和39年2月26日、東京都北区駒込の片桐産婦人科で産声を上げたことは自分ではもちろん覚えてない。父、松本光弘、母、明美。父は駆け出しの芸人、母はモダンバレエの先生。二人は日本大学芸術学部演劇学科で知り合う。そんな人前に出る事に慣れてる親に反して、自分は家で電車のおもちゃで遊んでるほうが好きだった。やがて父は「ほんじゃまあの帽子」という芸で人気が出てきて「早野凡平」という名前が世間に知れ渡る。すると突然「芸能人の息子」という役が自分に課せられる。何度となく週刊誌のグラビアなどで「陽気な芸能一家」をむりやり演じなければならなかった。

 母がモダンバレエの先生(印南明美)のだったので、いつも稽古場で遊んでいた。生徒だったお姉さん達に囲まれて育ったので子供の時からレオタード姿には免疫ができた。その頃はカセットテープはまだ無く、ポータブルレコードプレイヤーを使っていた。レコードを替えるのは僕の仕事だった。母は北区の石川幼稚園で教えていました。そこのホールには学芸会用の舞台があって、紐を引っ張ると開閉する幕があった。それを開け閉めするのが好きで、劇場などに行くと緞帳が開いたり閉ったりするのを見るのが大好きな「緞帳つう」になっていた。そんな僕にお父さんは木製の小さな劇場の模型を作ってくれました。それに自分の好きなタオルや布を垂らして「緞帳開け閉めゴッコ」を堪能していた。やがてボール紙などでセットを作ったりして、舞台装置に興味を持つようになる。(踊りは女々しいイメージがあり、自分がやりたいとはまだ思っていませんでした。)  緞帳、装置オタクの息子に、お母さんは新宿コマ劇場の話をした。そこには3段になるまわり舞台があって、赤い半円型の絞り緞帳がある事を教えてくれた。僕はその劇場が見たくて、何でもいいから連れていってくれとたのみました。その時ちょうど上演していたのが宝塚歌劇だった。これがマズかった。ハマったのです。コマ劇場の舞台機構を見れた喜びと共に、レビューという豪華な装置と衣装と踊りがみれる舞台芸術に出会ってしまったのだ。稽古場で育った僕は、この宝塚のケバイお姉さん達になんの抵抗感もなかった。小学6年で僕は日劇、SKDも鑑賞する一人前のレビュー少年になってしまった。12歳の誕生日の時一人で新幹線に乗って兵庫まで宝塚を見に行ったこともある。学校で趣味の合う友だちはいなかった。(なぜか僕のまわりの女子にもズカファンはいなかったなあ。)中学に入っても、お父さんが作ってくれた劇場模型で遊んでいた。グレードアップして豆電球の照明がついて、大階段などの装置を沢山作って、宝塚の実況録音盤のレコードに合わせて場面転換を楽しんでいた。


 映画館で「ザッツエンターテイメント」を見て以来、古いミュージカル熱も同時進行していた。高校に入学した 頃、レビュー熱も少し冷めてきて、思春期らしき事もいちおう一通り済ましておく。この頃、おじいちゃんがクレデンザという蓄音機の最高級品を買う。それを聞いて、蓄音機が欲しくなり、入学祝いに卓上型のを買ってもらった。それからSPレコードコレクション熱に火が付く。ジャズから流行歌まで昼飯代を削ってまでレコードを買った。これによっていろんな古い曲を覚えた事は今役立っている。高校時代も趣味の合う友だちはいなかった。高3になり進路を決めなくてはならなくなり、なんとなく舞台関係かなと思い一浪して日大芸術学部映画学科演技コースへ入学。そこでミュージカル研究会へ入る。これはお母さんたちが作ったクラブで、20数年後に息子が入った事になる。学科のほうよりクラブ活動に熱中して、結局3年目に中退しました。


 日大を中退した後、しばらく中古レコード屋でアルバイトをしていた。貯まったお金でアメリカへ行き、1年ぐらいスタンリー・カーン氏にレッスンを受けていたのもこの頃。そして帰国してまたお金貯めて、今度は留学しようと渡米。とりあえず語学学校に入って勉強していたが、母から電話があり「お父さんがガンであと2が月の命だ」と知らされる。帰国して2ヶ月でほんとに父は他界。当分は日本にいなくてはと思い仕事さがし。自分がやりたい事が何処にもない。自分がやりたいのは芝居じゃない。ミュージカルじゃない。レビューであった。しかし宝塚は女性だけ、日劇は解散状態。男でレビューをやってるところはなかった。そんな僕の望みに一番近いところが東京ディズニーランドでした。ここではタップを活かすことはできませんでしたが、ショーをやることができました。パレードとステージで毎日ゲストと接して、エンターテイメントがどういうものであるかを実体験で多く学ぶことにもなりました。自分はディズニーに入った後から自分の人生を楽しみ始めたと思っています。HAND-CLAPというグループでショーを演出する事を覚え、スタジオの立ち上げでタップを人に教える事も始めました。穴田英明に出会いリズムボーイズを組んだのもこの頃。まさに夢と魔法の王国がすべてのきっかけに繋がりました。


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